rmp3sの家の前

1年くらいで消えていく言葉の鉢植えたち

津田一郎

私は、心というものは普遍的な心というものがあって、それが個々の脳を通して各人の個別的な心が表現されるという構造を持っていると考えている。そして、この普遍的な心は数学が最もよく表現しえたものだと考えている。数学という学問は人類が普遍的に持つ心の働きそのものだという思いからそう考えてきた。さらに、身体を通じて各人がコミュニケーションの中で相互作用することによって、他者の心の影響を個々の脳は受ける。すなわち、他者の心によって自己の脳は変化し、作られていく。人が自分の意志で手を伸ばすといった随意運動をする場合、その約0.5秒前に補足運動野がすでに活動していることが知られている。このことが示唆することは重大である。我々は自分の意志で手を動かせると考えているが、実際はそうではなく脳が活動するから自分には意志があると感じているのかもしれないからである。そのような脳活動は他者との相互作用の実態が他者の心だという示唆を与える。そして、他者の心による脳へのフィードバックが自分の意志を形成する神経活動を促進する。私は、このような考えで心と脳の関係は数学を介して理解可能だと考えた。 

概観したように、脳は構成要素が他者や環境との関係の中で個々の脳機能に意味が生じるように構造が変化するような複雑系である。(「脳のなかに数学を見る」 津田一郎

 

脳のなかに数学を見る (連携する数学 1)

脳のなかに数学を見る (連携する数学 1)

 

 

 

 そもそも、なぜ神経系は記憶という装置を作ってしまったのか?これは大きな神秘であり、問いです。環境が完全にランダムで予測できないものだとすると、記憶はそもそも役に立ちません。(中略)一方で、予測可能なことだけが起きているとすると、これもまた記憶は必要ないことになる。(中略)
 この両極端を考えると、脳だけが複雑な記憶装置を作ったことの意味が見えて来ます。自然や人間社会を含めた環境は完全に予測可能でもないし、かといって完全にランダムでもない。決定論的でもなく確率論的でもない。必然でもなければ偶然でもない。環境は途方もなく複雑なわけで、そうした偶有性(コンティンジェンシー)と呼ばれる出来事が起こる複雑な環境と向き合うために、脳は記憶という装置を持つようになったのでしょう。脳はカオスを発生させることで、記憶だけでなく、様々な知覚や幻覚までも生成するようになって来たと考えられる。つまり、脳はカオスやカオス遍歴を生み出すことで、なんらかの心の状態を計算していると考えられるのです。(「心はすべて数学である」 津田一郎) 

 

心はすべて数学である

心はすべて数学である